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愛知県西部


きよすじょう


模擬天守
 
城近くある織田信長像
清州城 (愛知県清須市一場)
天守:模擬天守
戦国期の主な歴史
1555年 織田信長、守護代・織田信友から奪い居城とする。
1562年 清洲同盟が結ばれる。
1582年 清洲会議が行われる。
1595年 福島正則、24万石で入城する。
1600年 関ヶ原の戦い後、松平忠吉が52万石で入城する。
1607年 松平忠吉が病没。徳川義直が入城する。
1612年 名古屋城が完成。清州越しにより廃城。
(メモ)
本来建っていた場所とは少し違うらしい。近くにある織田信長の銅像の出来がいい。



こまきやまじょう


模擬天守

城の東から撮った小牧山
小牧山城 (愛知県小牧市堀の内)
天守:模擬天守  続日本100名城

戦国期の主な歴史
1563年 織田信長が美濃攻略の拠点として築城する。
1567年 信長、美濃を攻略。本拠を岐阜城に移したたため廃城となる。
1584年 小牧・長久手の戦い。徳川家康が改修して本陣を置く。
江戸時代 御三家・尾張徳川家の管理下に置かれる。

(メモ)
 当時としては珍しい石垣をもった城で、防衛施設、前線基地としての役割りだけでなく、権威の象徴としても建てられた。山の麓の曲輪や真っ直ぐのびた大手道の両脇には家臣らの屋敷などが建ち並び、途中で折れ曲がった大手道の先に館があるといった構造は、館と天守という違いはあるものの、近世城郭の先駆けである安土城にも見られる特徴で、小牧山城が元になったと考えられている。
 濃尾平野の中にぽつりとある独立峰で、天気がよけれれば岐阜城が建つ金華山を望むことができる。
 「小牧・長久手の戦い」と呼ばれるので、長久手が近いと思いきや、かなり遠い。

大手道 大手道近くの土塁と堀 本丸跡の石垣



ながくてこせんじょうあと


石碑

勝入塚
長久手古戦場跡 (愛知県長久手市)
 小牧・長久手の戦い(1584)の主戦場跡。
 小牧山(徳川家康本陣)周辺で戦いが膠着すると、羽柴(豊臣)方の武将・池田恒興(勝入)森長可は、家康の本拠地・岡崎への中入りを提案して実行したが、家康の追撃を受け、このあたりで戦い討死した。
(メモ)
 古戦場跡は現在、公園として整備されている。園内には石碑と勝入塚がある。周辺にも羽柴(豊臣)方、徳川方問わず関連の石碑がけっこうあるらしい。
 模擬天守 岩崎城 (愛知県日進市岩崎町)
天守:模擬天守 
戦国期の主な歴史
室町時代末期に築城されたといわれる。(築城主は織田信秀とも)
1529年 松平清康によって落城。
1535年 守山崩れ。清康が殺害され、このあたりの土豪・丹羽氏清が入城する。
1584年 小牧・長久手の戦い。城主・丹羽氏次の弟・氏重が池田恒興相手に奮戦し討死。
1600年 氏次、関ヶ原の功により三河伊保に1万石で転封、廃城となる。
(メモ)
小規模ながら、空堀、それにかかる土橋、櫓跡と遺構が残っている。
模擬天守が城跡の規模からするとかなり立派。



あつたじんぐう

熱田神宮 (愛知県名古屋市熱田区) 
 三種の神器のひとつ・草薙の剣を祀る神社。伊勢神宮に次ぐ格別の崇敬を集めた神社として知られる。
 
 1560年、 織田信長が、桶狭間に向かう際、戦勝祈願に立ち寄った。信長が御神前で願文を読み上げると、本殿から甲冑の音がして、白鷺が舞い立つという吉兆があらわれ兵の士気が上がったという。戦勝後、信長は返礼として壁を奉納しており、「信長塀」と呼ばれて現存している。

(メモ)
境内には弘法大師御手植えと伝わる樹齢千年の大楠がある。
源義朝、源頼朝、足利尊氏らも刀を奉納している。

外玉垣御門(拝殿)

織田信長が奉納した「信長塀」

弘法大師御手植えの大楠

宝物館とは別に刀剣の
展示施設としてつくられた施設

剣の宝庫 草薙館 

<見れた展示物>

大太刀 銘 末之青江 (太郎太刀)
 刃長221.5cm、全長303cm、刀身約6kgという大太刀。越前朝倉家に仕えた豪傑・真柄直隆が戦場で振るっていたといわれる。

大太刀 銘 千代鶴國安 (次郎太刀)
 刃長166.7cm、全長224.6cm、刀身約5kgという大太刀。越前朝倉家に仕えた豪傑・真柄直隆の子・隆基が戦場で振るっていたといわれる。



あらこじょう

荒子城 (愛知県名古屋市中川区荒子)
 天守:なし
 戦国期の主な歴史
1544年 前田利家の父・利昌によって築城されたと伝わる。
1569年 織田信長の命により、利家が城主となる。
1575年 利家が越前に移住する。
1581年 利家が七尾城主となり、嫡男・利長も移住。廃城となる。
(メモ)
城跡は現在、神社となっている。境内には「利家誕生」の石碑があるが、利家は1537年頃に誕生したといわれており、1544年に築城されたというのは疑問がある。しかし、幼少期から青年期にかけて過ごした城には違いない。
 
冨士大権現天満天神宮



駅前にある前田利家像



おけはざまこせんじょうあと

桶狭間古戦場跡
桶狭間古戦場公園
(愛知県名古屋市緑区桶狭間)
 1560年に桶狭間の戦いがあったとされる場所のひとつ。
 近くに桶狭間山と呼ばれた山があり、今川義元の本陣があったとされる。
(メモ)
 公園内には立派な銅像が建っている。
 駐車場がないので要注意。
桶狭間古戦場伝説地 (愛知県豊明市栄町南館)
 1560年に桶狭間の戦いがあったとされる場所のひとつ。幾つかある候補地で唯一、国の史跡指定を受けている。
 今川義元に殉じた家臣のひとり、松井宗信の子孫が建てた墓碑や義元の墓がある。道を挟んだ向かいの高徳院は義元が本陣を置いた場所とされる。
(メモ)
 最寄り駅は名鉄の「中京競馬場前」。駅を挟んで北側に競馬場、南側に古戦場伝説地がある。そのため、中京競馬場のG1レース「高松宮記念」で、実況アナウンサーが「桶狭間決戦」というフレーズをよく使う。
今川義元の墓 高徳院(今川義元本陣跡)

鳴海城跡の石碑
鳴海城 (愛知県名古屋市緑区鳴海町城)
天守:なし
戦国期の主な歴史
応永年間(1394~1428)に築城されたといわれる。
天文年間(1532~1555)織田信秀配下・山口教継、教吉親子が城主をつとめる。
1552年 織田信秀病没。その後、山口親子が今川義元に寝返る。
1553年 山口親子、織田信長の軍勢から城を守る。
1558年頃 今川家臣・岡部元信が在番として送り込まれる。
1560年 桶狭間の戦い。岡部元信、信長に対し、今川義元の首返還を条件に開城。
(メモ)
石碑と案内板は神社となっている二の丸跡にある。道路を挟んで向かいにある公園が本丸跡。そこには土塁などわずかながら遺構が残っている。

本丸跡

縄張り
沓掛城 (愛知県豊明市沓掛町)
天守:なし
戦国期の主な歴史
応永年間(1394~1428)に築城されたといわれる。
室町時代を通じて近藤家が城主をつとめる。
1541年頃 近藤景春、尾張・織田信秀に従う。
1551年 織田信秀病没。景春、織田家の勢力が弱まったため、今川義元に従う。
1560年 桶狭間の戦い。景春、織田家に抵抗するが討死。
同 年 簗田政綱が城主となる。
1575年 政綱、加賀へ転封。織田信照を経て川口宗勝が城主となる。
1600年 関ヶ原の戦い。宗勝、西軍につき敗北。伊達政宗の預かりとなり、廃城。

(メモ)
 1560年の桶狭間の戦いで、今川義元は駿府を出陣して、まずこの城に入った。松平元康(のちの徳川家康)が大高城への兵糧入れを成功させた翌日、沓掛城から大高城へ向かう途中の桶狭間で義元は織田信長の奇襲にあい非業の死を遂げた。
 城跡は公園となっているが、堀、土塁、曲輪跡などの遺構がしっかりと残っている。侍屋敷跡が車を10台ほど止めれる駐車場となっているが、駐車場までの道は細く、対向車に来られると厄介。



なごやじょう


外観復元天守
名古屋城 (愛知県名古屋市中区)
天守:外観復元天守  日本100名城  三名城  三大名城
戦国期の主な歴史
1532年 織田信秀が今川家より奪取。那古野城と改名する。
1534年 織田信長が生まれる。
1555年 信長が清州城に移ったため、廃城となる。
1610年 徳川家康の天下普請により「名古屋城」の築城が始まる。
1612年 清州からの移住(清州越し)が始まる。
(メモ)
徳川家康の九男・義直が入り、江戸時代を通して御三家・尾張徳川家の居城となる。
「伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ 尾張名古屋は城でもつ」といわれた名城。
2027年までに木造による復元が予定されている。
本丸御殿(復元) 西南隅櫓(重要文化財) 表二之門(重要文化財)
東南隅櫓(重要文化財) 不明門と剣塀



とくがわびじゅつかん


公益財団法人 徳川黎明会が運営する
私立美術館



太刀 (菊紋) 菊一文字
【重要文化財】
徳川美術館 (愛知県名古屋市東区徳川町)

<見れた展示物> 紹介しているものは常に展示されているとは限りません。

青磁香炉 銘 千鳥
 豊臣秀吉が所用した香炉で、天下の大泥棒・石川五右衛門が大坂城に忍び込んだ時に鳴いたという逸話がある。

太刀 (菊紋) 菊一文字 (重要文化財)
 江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の三男・忠長(3代将軍・家光の弟)が所持していたという太刀。のち尾張徳川家初代・徳川義直の手に渡り、5代・五郎太が尾張徳川家の菩提寺・建中寺に寄進した。

太刀 銘 長光 名物 津田遠江長光 (国宝)
 織田信長が所有していたものを、本能寺の変後に明智光秀が奪ったという名刀。光秀が家老のひとり、津田遠江重久に与えたのが名前の由来。

徳川家康所用 熊毛植黒糸威具足
 兜、胴、佩楯、脛当、ありとあらゆるところに熊毛が植え込んである具足。

渡辺守綱所用 月輪前立兜 付 南蛮胴具足
 「槍の半蔵」と呼ばれた徳川家臣・渡辺守綱徳川家康より拝領したという具足。

徳川家康三方ヶ原戦役画像
 通称「しかみ像」といわれる画像。三方ヶ原の戦いで惨敗した徳川家康が、失敗の戒めとして描かせたといわれる。

千利休作 竹茶杓 泪
 千利休が豊臣秀吉に切腹を言い渡され、蟄居先の堺へ向かうとき、罪が及ぶのを恐れず見送りに来てくれた古田織部に送った形見の茶杓。

唐物茶壷 松花 (重要文化財)
 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と三英傑に受け継がれた茶壷。



いぬやまじょう


望楼型天守
犬山城  (愛知県犬山市犬山)
天守:現存天守  国宝  日本100名城 
戦国期の主な歴史
1537年 織田信長の叔父・信康によって築城される。
1582年 本能寺の変後、織田信雄の支配下に置かれる。
1584年 池田恒興が信雄より奪取。小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉が本陣を置く。
1607年 尾張徳川家の附家老・平岩親吉が城主となる。
1617年 尾張徳川家の附家老・成瀬正成が城主となる。以後は成瀬家が世襲。
(メモ)
すぐ近くの名鉄ホテル敷地内に、織田有楽斎(信長の弟)の国宝・茶室「如庵」が移築されており、国宝の犬山城天守とあわせてお得な気分になれる。
天守から見た木曽川 天守と木曽川の位置関係 国宝・茶室「如庵」(名鉄ホテル敷地内)



おおみどうじ(のまだいぼう)


野間大坊客殿(県重要文化財)

  織田信孝(信長三男)の墓
 鶴林寺大御堂寺(野間大坊) 愛知県知多郡美浜町野間東畠
 創建は天武天皇(673~86)の時代まで遡るという古刹。
 
 1583年、織田家を乗っ取り始めた羽柴(豊臣)秀吉と対立した織田信孝は、後ろ盾だった柴田勝家賤ヶ岳の戦いで敗れると、秀吉と手を組んでいた異母兄・織田信雄の説得を受けて降伏した。
 降伏後、信孝は大御堂寺の塔頭である安養寺(当時の呼び名は「南ノ坊」)に身を退き蟄居していたが、罪は許されず切腹となった。そのため、境内には信孝の墓がある。
 大御堂寺は、その後も秀吉、徳川家康の庇護を受けて発展。江戸時代の初期には秀吉の最後の居城であった伏見城の一部が移築され、現在は客殿として使用されている。

(メモ)
 戦国時代的には織田信孝が関わった寺であるが、源頼朝、義経の父・源義朝の終焉の地でもあり、歴史的にはこちらの方が有名。
 平治の乱で敗れた義朝は、京から関東へ逃れる途中、家臣・長田忠致を頼るため、忠致の領地であったこの地を訪れた。しかし、忠致に裏切られ殺害された。
 入浴の際に襲われた義朝は「木太刀のひとつもあれば」と無念を叫んだという逸話があり、境内にある義朝の墓には、たくさんの木太刀が奉納されている。